ジネット・ヌヴー(GINETTE NEVEU) その生涯

目次

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はじめに

●ジネット・ヌヴー(1919~1949)
今世紀最高の天才的女性ヴァイオリニスト。フレッシュ、エネスコ、ブーシュリーの反逆的な弟子。1930年パリ音楽院に入学、半年で最優秀賞をとり卒業。ヴィエニアフスキ以来の短期受賞者であった。ヴィエニアフスキ国際コンクールでは、11歳年長のオイストラフを押さえて優勝した。彼女は偉大な教師3人の指導を受けたが、ひとつの流派を代表するタイプの人ではなく、自分の判断で必要とあらば、どの奏派からでも取り入れるべきものはつかみとった。技巧的には信じられない程の確実さを持ち、感受性の強い、激しい集中力と多彩な表現力の即興的駆使は、スリリングで極めて個性的であった。1949年、アゾレス諸島で航空機事故のため亡くなった。(参考文献1)

上記は、EMI「名ヴァイオリニストの歴史」の付属解説書(参考文献1)からの抜粋である。絶賛ともいえる人物評でファンの一人としては正直嬉しいが、実は表面的な概要を述べているにすぎない。

ここでは、ジネット・ヌヴーの生涯を、エピソード、そして伝説等を交えながら紹介していきたい思う。

なお、参考文献の引用にあたっては、出来る限り引用元の文章をそのまま記載するようにしているが、内容的な分かりやすさ等を考慮し、若干、追記、修正、割愛等行っている部分があることを予め断っておく。また、私の私見を述べている箇所もあるので、そのような意見を読みたくない方は、灰色の背景部分(引用部分)を読んでいただければと思う。

その生涯(生誕~ヴィエニャフスキコンクールまで)

ジネット・ヌヴーは、1919年8月11日にフランス・パリで生まれた。有名な作曲家でありオルガニストでもあったシャルル・ヴィドールの曾孫にあたる。母親はヴァイオリンの教師で、父親はアマチュアながらもヴァイオリンをたしなんだ。

5歳になるかならない頃、ジネットは母親から4分の1のヴァイオリンを与えられて奏き始めた。タリュエル夫人(Madame Talluel)のもとで才能を伸ばし、5歳半ばにして、シューマンの《コラールとフーガ》を演奏した。2年後には、サール・ガヴォーという舞台で、ブルッフの協奏曲にて公式のデビューを飾った。(参考文献2,3,4)(注:参考文献4では、公式デビューは、7歳の時、メンデルスゾーンの協奏曲(ガブリエル・ピエルネ指揮、コロンヌ管弦楽団)と書かれている。)

血筋というものはやはり存在するのだろうか。いずれにしろ周りに音楽の溢れる環境で育ったのは間違いない。母親が、(現代良く見られるような)教育ママであったかはさだかではないが、後年、ジネットが「ヴァイオリンは私の職業ではありません、使命なんです」、「いつも同じ演奏をするようになったら、もう駄目。私は奏くたびごとに良くなって行きたい」と語っている(参考文献2)ことから推測して、強制されたヴァイオリンでなく、その才能は自然な形で開花したのだろう。

1928年、9歳のジネットはパリ高等音楽院ヴァイオリン科の1等賞を取り、パリ市名誉賞をもかちえた。その記念演奏会がきっかけとなり、サン=サーンスの《序曲とロンド・カプリチオーソ》をガブリエル・ピエルネ指揮/コロンヌ管弦楽団にて演奏した。また、スイスに招かれ、メンデルスゾーンやナルディーニの協奏曲を奏いた。

1930年、11歳のとき、パリ音楽院の名教授ジュール・ブーシューリのクラスに入る。入学後、わずか8ヶ月で、ヴァイオリン科の1等賞を取り、卒業した。これは、87年前にかのヴィエニャフスキが作った記録に肩を並べるものであった。(参考文献2,4)

恐ろしい天才ぶりである。11歳といえば、日本でいえばまだ小学生の時分であるのに。。。ちなみに、11歳で1等賞をとり卒業した際、ジネットは母親から褒美として玩具のピストルを貰い大変嬉しかったという(参考文献4)。ピストルというのが、いかにも男勝りの演奏をするジネットらしい。

なお、このパリ音楽院時代、ヌヴーは、ナディア・ブーランジェのとで作曲を学び、いくつかの無伴奏ヴァイオリン・ソナタやヴァイオリン・コンチェルトのデッサンを書いたことがあるという。(参考文献2)

パリ音楽院に入る前、1929年ごろ、ジネットは、大家ジョルジュ・エネスコに会い、しばらく教えを受けている。

あるときエネスコから「こんどはこの曲を少し違ったふうに奏いてごらん。」と言われた10歳のジネットは、師に向かってはっきりと答えた-「わたし、自分が感じたようにしか奏けません・・・・・・・」。(参考文献2)

上記のエピソードは彼女の気質、本質を表している気がして興味深い。彼女のファンの方は、少なからず、なるほどと感心するだろう。

1931年、ジネットはウィーンで行われた国際コンテストに出場した。当時最高の権威、カール・フレッシュ教授(名教師)の目にとまり、ベルリン留学を勧められる。

(経済的な事情その他があって)その2年後、ベルリンに留学し、カールフレッシュのもとで学んだ。フレッシュには4年間師事した。(初めはベルリン、のちには師が転居したベルギーで。)(参考文献2)

ベルリンに赴き、大家フレッシュに師事した際、有名なエピソードが残っている。13歳の彼女に対して大家が述べた言葉である。

「・・・・・・あなたは天から贈り物をさずかって生まれてきた人だ。私はそれに手をふれて、あれこれしたくはない。私にしてあげられるのは、いくらかの、純粋にテクニック上のアドヴァイスぐらいだ」(参考文献2)

フレッシュが本当にそう述べたのか、あるいは、後に創りあげられた伝説なのか私には分からない。しかし、常に抜群の成績であった(参考文献4)のは間違いないらしい。

1935年3月、師フレッシュの勧めもあり、ジネットはポーランドのワルシャワで催されるヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場した。ジネットは出場が決まると、課題曲のバッハおよびヴィエニャフスキの作品を熱心にさらい、自由曲には、かねて好きだったラヴェルの《ツィガーヌ》を選んだ。

結果は・・・・・・この上ないものであった。15歳のジネット・ヌヴーは、26歳のダヴィッド・オイストラフ(2位)、28歳のアンリ・テミアンカ(3位)以下の精鋭たちを抑え、見事に優勝を飾った。(参考文献2)

ジネット最大の転機と思われるヴィエニャフスキコンクール優勝については、このとき彼女が審査員、聴衆に与えた圧倒的な印象に関して、面白い話がある。

例えば、第二位に甘んじたダヴィッド・オイストラフは、故郷の若妻に宛てて次のように書き送っている。(参考文献2)

「・・・・・・2位になれたことで、ぼくは満足している・・・・・・ヌヴー嬢は”悪魔のように”素晴らしいと、誰しも認めるだろう。きのう彼女がヴィエニャフスキの変ヘ短調協奏曲をまさに信じられない力強さと激しさをこめて奏いたとき、ぼくはそう思った。しかし、彼女はまだ15,6かそこらなのだから、もし1等賞が彼女に行かなかったら、それは不公平というものだよ・・・・・・」(参考文献2)

また、「ヴァイオリニスト33」(参考文献5)に引用されている文章が面白いので紹介しておく。

「彼女の演奏は、全く素晴らしいものであった。洗練された完璧な技術と情熱的な演奏によって、全聴衆はまさに恍惚の状態になった。(中略)二十一人の審査員の判決は下ろされた。『第一位、ジネット・ヌヴー、第二位、ダヴィド・オイストラフ』/「第一位と第二位との差は二十六票もあった」(佐々木庸一著『ヴァイオリンの魅力と謎』音楽之友社、一九八七年二月刊、九二ページ)。(参考文献5)

21人の審査員による採決で2位との差が26票というのが良く分からないが(一人あたり数票あったのだろうか?)、大差で優勝したということらしい。

この、ヴィエニャフスキコンクール優勝を機に、ジネットは国際的に活躍の場を広げることになる。

その生涯(ヴィエニャフスキコンクール~夭折まで)

さっそくハンブルグ市が旅途中の彼女を迎え、イッセルシュミット指揮のもとブラームスの協奏曲を演奏した。また、ミュンヘン、ベルリンなどに演奏会を持った。

1936年、17歳のときには、ロシア(ソビエト)、アメリカ合衆国、カナダにも演奏旅行を行った。

1937年から第2次世界大戦が終わるまでは、ヨーロッパから離れずに過ごした。1938年には、ベルリンで初のレコーディングを行った。大戦が始まると、パリを占領したドイツ軍からの演奏要請を断り、練習に明け暮れた。(参考文献2)

各地での演奏会は非常な成功であったが、とりわけベルリンでのそれはもの凄かったらしい。R.シュトラウスのヴァイオリンソナタとショパンの夜想曲がドイツ・グラムフォンから出ている(参考文献4)。

また、カナダでの演奏に際して、面白いエピソードがある。

モントリオール(カナダ)では、彼女の登場にさいしてオーケストラが《ラ・マルセイエーズ》を奏しながら迎えたという。彼女は、カナダにとって縁の深い友邦フランスの栄誉をになう天才少女と-正当に-見なされたのである。(参考文献2)

また、大戦中のパリ籠居のジネットの進歩について、ティボーは次のように述べている。

「弦楽奏者の分野で戦時中最も目ざましい進歩を見せた者は、第1にジネット・ヌヴー、第2にピエール・フルニエ、第3にギーラ・ブスタボだ」(参考文献4)

ジネットとティボーの接点は、いつの時点に遡るのだろうか? 同じフランスということで、必然的に出会う運命だったのだろうか?

なお、大戦中、1943年6月21日にヌヴーは、プーランクのヴァイオリンソナタを初演している。(パリのサル・ガヴォーでヌヴーのヴァイオリンとプーランク自身のピアノ演奏) また同じく1943年には、フェデリコ・エリサルデ(フィリピン出身の作曲家、ブロッホ門下)のヴァイオリン協奏曲を初演(於ボルドー) している。(参考文献5、一部インターネット調べ)

パリが開放された後、1945~1946年にはイギリスへ何度も足を運んだ。またロンドンにてレコーディングを行っている。

1947年には、南北アメリカへの公演旅行を行い、1948年には広くヨーロッパ諸国に演奏をつづけた。

また、1948年から1949年にかけてヌヴーは今一度アメリカ合衆国、さらにオーストラリアへと楽旅を伸ばした。(参考文献2)

1945年のロンドンデビューでも満都の人気を博し、またウィーンでのデビューでは空前のセンセーションを巻き起こしたらしい。ヌヴーへの熱狂が、土曜日の午後と翌日曜日の午前に同じ番組の演奏会を開かせたほどであった(参考文献4)とのことである。

また、1947年の訪米時のエピソードも面白い。

neveu_life2カーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団とのブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した際、聴衆の1婦人は拍手の度が過ぎて指輪のダイヤモンドを失くしたし、楽員たちは楽屋にファンが大勢殺到したので立往生してしまった。ヘラルド・トリヴューンやワールド・テレグラムなどのジャーナリズムも、”戦後米国を訪れた最大最高の芸術家!”とか”純白の聖衣をまとった崇高な尼僧!”とまで激賞している。(参考文献4)

当時の実演を聴いた方々が羨ましい。

1949年10月20日、訪米に先立ちヌヴーは、パリのサール・プレイエルにてヘンデルのソナタ・ニ長調、バッハのシャコンヌ、シマノフスキーの《夜想曲とタランテラ》、そしてラヴェルの《ハバネラ形式の小品》、《ツィガーヌ》を含むリサイタルを開いた。この演奏会のポスターには、<お別れ演奏会Concert d’adieu>の文字があったが、それはもちろん、引きつづいてアメリカ大陸へ演奏旅行に旅立つヌヴーの、パリへの置き土産というだけの軽い意味だった。(参考文献2,3)

偶然には違いないが、ファンはその偶然と事実を結びつけ、伝説が形創られていく。

1949年10月28日、ジネット・ヌヴーは、つねに彼女のこよないピアノ伴奏者として旅を共にしていた兄のジャン・ヌヴーともども、パリの空港からコンステラシォン機に乗り込んだ。幾時間かののち、その機体は・・・・・・ポルトガル領アゾーレス諸島(大西洋上)中のサン・ミゲル島、山のふもとに散乱していた。だれ一人、生存者はいなかった。兄ジャンの遺体はついにみつからず、ジネットとその人が-たとえそれが“伝説”であろうと、私はここに書きとめておきたい-かろうじてそれとわかったのは、腕の中にしっかりと、愛用の1730年製ストラディヴァリウスが抱えられていたからであった。ヴァイオリンはもとより壊れていたが、奇跡的に、焼けてはいなかった・・・・・・。(参考文献2)

コンステレーション機参考文献5で渡辺氏が指摘しているように、事実は少し違い、愛器のストラディヴァリも同様の運命を辿ったとのことである。確かに、生存者なしの飛行機事故に逢い、ヴァイオリンが無事で済むわけがない。しかし、もし奇跡的に残存していたのなら-1730年、ストラディヴァリ晩年期に製作された-そのヴァイオリンを一度見てみたいとも思う。

なお、右の写真は、ロッキード社製のコンステレーション機である。彼女が乗った機もこのような機体だったのだろうか?(画像出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヌヴーの死は、フランスはもちろんのこと、全世界から悼まれた。遺体は最終的にはパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された-幼い彼女がその作品を通じ「サンチマン(情感)の美しさを知った」という-ショパンの墓のすぐ間近に。

死後の栄誉として、フランス政府からレジョン・ドヌール十字章が授与された。(参考文献2,3)

ポエム調の口調になっており悲劇感をより一層誘うが、事実はどうなのだろうか。参考文献5にて、著者の渡辺氏は、次のような文章を引用している。

ヌヴーの葬儀がとつぜん延期になって、パリの音楽ファンを驚かせたことである。延期の理由は同家の発表によると、エール・フランス航空会社から運ばれてきた遺体、着衣、携帯品のすべてが別人のもので、たとえば遺体のツメは、女流ヴァイオリニストに禁止の長くとがったツメをしており、首にかけたメダルも彼女のものではないエジプト製のものであった。/航空会社の調査で、この遺体は乗客のイラン婦人のものと判明したが、肝心のマドモアゼル・ヌヴーの遺体はアメリカ婦人のものと間違ってニューヨークへ送られているのではないかと、目下調査をすすめている。/一九四九年十一月下旬現在の報道である。それ以降のニュースは私のスクラップ・ブックにはない」(『ステレオ芸術』一九七四年十一月号「ジネット・ヌヴーの霊媒」。署名=三浦淳史)(参考文献5)

一ファンの私には、彼女の遺体が実際どうなったのか等々、残念ながらその真相は分からない。

最後に、ヌヴー事故死の報が駆け巡った際のジャック・ティボーに関わるエピソードを紹介しておく。

・・・・・・フランス楽壇の驚愕、悲嘆と痛惜は深刻をきわめた。ジネット・ヌヴーの名を冠した音楽協会、楽堂、街路、記念碑や追悼本の誕生はその具体的な現れである。余談だが、ティボーがヌヴーの訃報に接した際、「私の最後もそのようでありたい」としみじみ述懐したことも特筆に値しよう。周知のとおり、ティボーはその4年後3度目の訪日の途次、アルプスの上空で遭難したからである。(彼の搭乗したエール・フランス機はフランス/イタリア国境のアルプス山中に激突。遺体と愛用のストラディヴァリは発見されなかった。)世にも不思議な運命の符号といわなければならない。(参考文献4,5)

終わりに

ヌヴーとの共演でベートーヴェンの協奏曲を振ったヘルベルト・フォン・カラヤン(当時ほぼ40歳)は、このコンビでぜひ同曲をレコードにしたいと、英HMVに要請を出したと伝えられるが しかし、実現せずに終わった。(参考文献2)。

また、ヌヴーの帰国直後には、ベートーヴェンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲や、エドウィン・フィッシャーとの協演によるブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲の録音が予定されていたが、奇禍のため実現されなかった。(参考文献4)

さらには、初演者ヌヴーの余りに早すぎる死のため、プーランクのヴァイオリンソナタや、フェデリコ・エリサルデのヴァイオリン協奏曲の録音も残ってはいない。(参考文献5)

「不世出の天才」、「空前絶後」とも言われた、フランスの女流ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー。その余りに短すぎる生涯のため、残された録音は数少ない。そのためか、多くのヴァイオリニストの録音が溢れる現在、彼女の録音演奏を聴く機会は少ないのかもしれない。(実際、私の周りの、特にヴァイオリンを演奏する方の多くは、彼女の名前を知らない。)

ジネット・ヌヴーを一言で表現すると“「魂の燃焼を感じさせる(精神性のこもる)音」を持つ稀有の人”だろうか。(「魂の燃焼」という単語は、解説書などにも記載されているし、ヌヴーを語る際によく出されるが、私はこの言葉以上に彼女をうまく表現できない。)

このページを読んでみて、彼女に興味を持っていただければ幸いである。

最後に、ジネット・ヌヴーと同時代を生きてきた二人の言葉を持ち出して、このページを締めたいと思う。

・・・・・・ジネットは聴く者を催眠にかけました。今で言う“カリスマ”です。彼女にはカリスマ性があり、聴衆は思わず信じてしまうのです。“この曲には、この解釈しかあり得ない”と

まるで催眠術でした(イダ・ヘンデル)(参考文献6)

・・・・・・ジネットはフランクの曲の第3楽章の最後でCシャープ音をやや低めに弾いた。これが“色”です。おそらく今日では、こういう弾き方はしません。音が外れてるから。でもそれが何でしょう? ティボーも同じでした。「クロイツェル・ソナタ」 第3バリエーションでDフラット音をやや低めに弾いた。正しい音はこれ。(弾いてみせる。) カザルスも同じ事をしました。音に“色”をつけるためです。(イヴリー・ギトリス)(参考文献6)

年表

1919年8月11日
フランス・パリに生まれる。母親はヴァイオリンの教師、父親はアマチュアヴァイオリン弾きであった。また、有名な作曲家でありオルガニストでもあった、シャルル・ヴィドールの曾孫にあたる。
1924年頃
5歳になるかならない頃、4分の1のヴァイオリンを弾き始める。タニュエル婦人(Madame Talluel)のもとで才能を伸ばし、5歳半ばで、シューマンの「コラールとフーガ」を人前で演奏する。
1926年頃
7歳の時、パリのサール・ガボヴォーにてブルッフのヴァイオリン協奏曲で公式のデビューを飾る。
1928年
9歳の時、パリ高等音楽院ヴァイオリン科の1等賞を取る。また、パリ市栄誉賞を併せてかちえる。
コロンヌ管弦楽団の伴奏でサンサーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を奏く。また、その評判からスイスに招かれ、メンデルスゾーンやナルディーニの協奏曲を奏く。
1929年頃
10歳の時、大家ジョルジュ・エネスコから、しばらく教えを受ける。
1930年
11歳の時、パリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入る。入学後わずか8ヶ月でヴァイオリン科の首席に輝く。(87年前にヴィエニャフスキが作った記録と肩を並べる。)
1931年
ウィーンで開催された国際コンテストに出場。名教師カール・フレッシュの目にとまりベルリンへの留学を勧められる。
1933年頃
13歳の時、ベルリンに留学しカール・フレッシュの元で学ぶ。フレッシュには4年間師事し、師の転居に伴い、ベルギーにも居住している。
1935年3月
15歳の時、ポーランドのワルシャワで開催された第1回ヴィエニャフスキ国際音楽コンクールに出場し、二位以下を大差で破り優勝する。なお、このときの第二位は26歳のダヴィッド・オイストラフ、第三位は28歳のアンリ・テミアンカであった。
コンクール終了後、ハンブルグ市が旅途中の彼女を招聘し、イッセルシュミット指揮のもとにブラームスの協奏曲を演奏。その後、ミュンヘン、ベルリン等に演奏会を持つ。
1936年
17歳の時、ロシア(ソビエト)、アメリカ合衆国、カナダにて演奏。
(1937年から第2次世界大戦終了後までは、ヨーロッパに留まる。パリを占領したドイツ軍からの演奏要請を断り、練習に明ける。)
1938年
ベルリンにて初のレコーディング。
1942年夏?
プーランクにソナタの作曲を依頼。
1943年6月21日
プーランクのヴァイオリンソナタを初演。(パリのサル・ガヴォーでヌヴーのヴァイオリンとプーランク自身のピアノ演奏)
1943年
フェデリコ・エリサルデ(フィリピン出身の作曲家、ブロッホ門下)のヴァイオリン協奏曲を初演。(於ボルドー)
1945年~1946年
ウィグモア楽堂にてロンドンデビュー。イギリス・グラムフォンとの専属契約ができる。また、ロンドンに何度も足を運び、レコーディングを行う。
1947年
南北アメリカへの公演旅行を行う。
1948年~1949年
ヨーロッパ諸国に演奏を続ける。また、アメリカ合衆国、オーストラリアへ演奏旅行を行う。
1949年10月20日
アメリカ旅行に発つ前に、パリのサール・プレイエルにて独奏会を開く。そのポスターには、旅立ちに向け「Concert d’adieu(お別れ演奏会)」の文字があった。
1949年10月28日
3度目の訪米途中、飛行機事故にて死亡。享年30歳。彼女の遺体は、ショパンの墓地に近い、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
没後
フランス政府より、レジョン・ドヌール十字章が授与された。

参考文献

  1. 署名なし、CD「名ヴァイオリニストの歴史」付属解説書、EMI TOCE-9601-5
  2. 署名:濱田滋郎、CD「ジネット・ヌヴーⅠ」付属解説書、(株)シェルマン SH-1002
  3. 署名:濱田滋郎、CD「ブラームス:ヴァイオリン協奏曲/ヌヴー」付属解説書、PHILIPS PHCP-3411
  4. 署名:西条卓夫、LPレコード「ジネット・ヌヴーの芸術」付属解説書、EMI GR-2189
  5. 署名:渡辺和彦、「ヴァイオリニスト33」、p105~P112、(株)河出書房新社
  6. DVD「アート・オブ・ヴァイオリン」、ワーナーヴィジョン・ジャパン WPBS-90033

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ジネット・ヌヴー(GINETTE NEVEU) その生涯」への19件のフィードバック

  1. 巖谷 鷲郎

     ある友人とジネット・ヌヴーを聴いていた夏の午後について、ちらりとブログに書いていたもので、ヌヴーを知らないひとのためにリンクを張ったほうがよさそうだなと音楽関係のサイトを探していたところで、このページに突き当たりました。

     いいサイトだなぁ。

     途中までしか読んでいないので、後日、あらためてじっくり読みにきます。

  2. ピンバック: Washirohその日その日

  3. とらもく 投稿作成者

    巖谷さま。
    コメント&トラックバックありがとうございます。
    ジネット・ヌヴーは私の大好きなヴァイオリニストでして、勢い余ってこんな感じで書いてしまいました。
    楽しんでいただけましたら嬉しいです。

  4. 岡島智康

    朝日新聞2010-5-29「音楽展望」を読んでいるうちに、ヌヴーのシベリウスを思い出し、聴き惚れてしまいました。少々録音が悪いのですが、私の宝物のようなCD です。

  5. とらもく 投稿作成者

    岡島様
    初めまして。ヌヴーのシベリウス良いですよね!私も大好きな演奏です。
    「音楽展望」は残念ながら見ておりませんが、どのような記事だったのでしょうか?
    今後ともよろしくお願いします。

  6. 岡田千麻

    息子が先月アヴィニョン国際ヴァイオリンコンクール,別名ジネットヌブーコンクールに参加しました。彼は,パリ国立音楽院の生徒です。このコンクールの目的は若い芽にチャンスを与える、アヴィニョン音楽学院、そして町を挙げてのイベントでした。審査も参加者一人一人にきちんとをコメントを渡し,育てていくという姿勢がとても素晴らしいと思いました。ジネットヌブーについてもっと広く知ってもらおうと日本のサイトを検索しているうちにこのページにいきあたりました。素晴らしいです。ありがとうござます。彼女のしっかりとした演奏の中のぞくっとさせる音色がすきです。

  7. とらもく 投稿作成者

    岡田様
    コメントありがとうございます。ジネット・ヌヴーは私の大好きなヴァイオリニストです。若者らしい集中力の極みのような演奏に惹かれております。このサイトが何かのご参考になれば幸いです。
    アヴィニョン国際ヴァイオリンコンクールは別名ジネットヌブーコンクールと呼ばれているのですね。息子様、素晴らしいですね。ご活躍をお祈りしております。

  8. セシル

    岡田様は優勝された Shuhei Okada さんのお母さまでしょうか。
    本当にすばらしいですね。いつか演奏を聞かせていただく機会が訪れますように。
    演奏家になるのは、ご本人だけでなく御家族も大変なのではないでしょうか。
    先日ジネット・ヌヴーのお母さまが書かれた伝記を入手したので
    楽しみに読みたいと思っています。

  9. とらもく 投稿作成者

    優勝されたとは露しらずコメントしてしまいました。
    おめでとうございます。
    (私の調べ方が悪いのか、アヴィニョンの情報がなかなか得られないのが残念です。)
    セシルさん、ヌヴーのお母様の伝記、お読みになられたらご感想を教えて頂けると嬉しいです(^^;

  10. セシル

    とらもくさん、ジネット・ヌヴー・コンクールのサイトは上のリンクです。
    英仏独語で書かれています。
    伝記は少しお時間くださいね。写真も幼少時からいろいろ載っています。

  11. とらもく 投稿作成者

    セシルさん
    URLありがとうございます。私、日本語で検索していたから見つからなかったのかもしれません。こういうときに英語ができればなあと感じます。
    伝記はフランス語で書かれているのでしょうか。掲載されている写真も興味あります。
    お読みになられたご感想を楽しみにお待ちいたします!

  12. draco

    昨晩(26年4月19日)から未明にかけNHKEテレでストラディバリウスに関する番組が昨年に続いて放映されました。ヴァイオリンというとジネット・ヌヴー演奏のブラームスヴァイオリン協奏曲を思い出します。彼女の生涯をウエブで検索、このサイトに行き着き濃い内容に感謝したく何年も経っていますがコメントさせていただきます。
     音楽はジャンルを問わず気に入ったものを聴くという勝手なファンですが、無人島に流されるとしたら一冊の本は何?の本が音楽なら私の場合は、ブラームスの交響曲第1番それもファン・ベイヌム指揮アムステルダムコンセルトヘボウの演奏なのです。
     バイオリン奏者は子どもの頃知ったアイザクスターン、ダビッド・オイストラフなどで、両者のブラームスヴァイオリン協奏曲をLPで今も持っています。最近はYouTubeで曲の聞き比べも簡単に出来いい時代と思います。ブラームスヴァイオリン協奏曲をある日聞き比べているとき見つけたのがジネット・ヌヴー、指揮ハンス・シュミット=イッセルシュテットによる彼女事故死直前のものでした。それほど知識のある私ではないので彼女を初めて知り何の先入観もなく聞き始め、その力強くブラームスの内面をも表現するかの演奏にただ驚き聴き入ったものです。ドイツらしい伝統を保った指揮者とのこの録音は正に音楽史上希有の財産と私は思います。
     彼女の人となりをその後に知り、今日またこのサイトに行き当たれたことにお礼申しあげます。

  13. フォレストヒル

    こんにちは。
    私も社会人オケで偶然に、ブラームスのコンチェルトをやることになり、参考になれば。。。とYoutubeで色々なアーティストの聴き比べをしていました。
    そこでたどり着いたのが、ジネット・ヌヴーの演奏でした。
    名前も知らなかったヴァイオリニストで、ネットで検索したところ、飛行機事故で夭逝したことを知りました。その早すぎた人生に思いを馳せたりしていると、彼女の演奏がまたより一層、カリスマを帯びて耳に響きます。
    彼女への愛情とリスペクトが溢れた素晴らしいブログで、思わずコメントさせて頂きました。
    今も、頭の中でブラームスが鳴り響いてます。
    本当に素晴らしい、何度聴いても飽きることのない名曲だと思います。

  14. とらもく 投稿作成者

    フォレストヒルさま
    こんにちは、とらもくです。
    ブラームスの演奏は良いですよね。
    ジネット・ヌヴーにご興味を持っていただけたのなら嬉しいです。
    (シベリウスや、ツィガーヌ等もお勧めです!)
    今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます!

  15. 齊藤 隆志

     ヌヴーのブラームスの感動し、いろいろと調べているうちにこのサイトに行き着きました。事実と伝聞とか引用をきちんと区別した書き方が好ましく思いました。ネットでは、原典を確認しないでいろいろなことを書く人がいますが、そういうサイトとは違い、信頼できました。
     いろいろと当たっているうちに、ヴァテロというヴァイオリン工房の主人がテレビ番組に出て、ヌヴーのヴァイオリンについて証言しているのを発見しました。以下のサイトにあります。残念ながらフランス語です。
    http://www.dailymotion.com/video/xjjj1a
     
     オイストラフの手紙も探しましたが、ようやく、David Oistrakh: Artist of the People というフィルムの中でオイストラフが語っているらしいというのがわかったのですが、このDVDはyutubeにあるのに、著作権の関係で見ることができません。DVDは買えますが、やや高めです。
    https://www.amazon.co.jp/David-Oistrakh-Artist-People-DVD/dp/B001E1TGH2/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1508832108&sr=8-1&keywords=oistrakh+artist+of+the+people

     私もたまにブログを書いています。ヴァテロの証言については、そのブログでこれから書きますので、ご興味があれば、ご訪問ください。

  16. とらもく 投稿作成者

    齊藤様
    こんにちは、とらもくです。
    詳しい情報を大変ありがとうございます。
    残念ながら私はフランス語が全く分からないのですが、時々聞こえてくるヌヴーやガダニーニという言葉、折れたスクロールなどから貴重な証言をされているのを感じます。涙も印象的でした。
    オイストラフの手紙は私も拝見したことがございません。教えて頂いたDVD、いつか見る機会があればと思います。(でも、英語のようですので私に理解できるかどうか…。)
    時折ですが、「ヌヴーが生きていたらどのような位置づけのヴァイオリニストになったのだろう」、と思うときがあります。
    ブログも拝見させて頂きました。素晴らしい情報満載で驚きました。私は僅かな日本語の書籍などからしか情報を得ていませんでしたので、オモボノ・ストラディバリの事など初めて知りました。
    貴重な情報をありがとうございます。感謝申し上げます。

  17. とらもく 投稿作成者

    読者の皆様
    齊藤様のホームページに、ヌヴーの事故後の状況など詳しい情報が掲載されております。
    下記URLも併せてご覧頂くと良いと思います。

    悲劇の天才 ジネット・ヌヴー(齊藤様のホームページ)
    http://amtsaito.seesaa.net/article/454410453.html

  18. 齊藤 隆志

     とらもくさん、コメントへのご返事ありがとうございます。
     また、私のブログにも訪問していただき、感謝します。
    ヌヴーの母親が書いた伝記を探しましたが、アマゾン・フランスのフランス語版もアマゾン英国の英語翻訳版もどっちも在庫なし、で買えませんでした。フランスに行って、音楽関係専門の本屋でないと買えなそうですね。
     ジャック・テイボーのことも調べたのですが、不思議な話ですね。テイボーのストラディバリウス(
    これは1720年のものと言われています)も発見されなかったのですが、弦だけ残っていたそうです。1953年9月のパリマッチ誌に記事があって、その中に、弦を見つけた山岳民族の人が、その弦を嬉しそうに持っている写真があります(下記URL参照)。セロファンの袋に入った替えの弦だったと書いてあります。他の乗客が誰もヴァイオリンを持っていなかったのなら、この弦がテイボーのストラディバリウスだと言えるでしょうが、その辺はどうだったのでしょうか。・・・というようなことを考え始めるとキリがありませんね。
    http://aviatechno.net/constellation/f-bazz_match.php

    また、この記事には、東京で、和服の女性3人が、予定されていたテイボーの演奏会のポスターに見入っている写真もあります。事故の数時間後に撮った写真であると書いてあります。また演奏会の席は完売していたとも。興味深いものがあります。

  19. とらもく 投稿作成者

    齊藤様
    こんにちは、とらもくです。
    お忙しい中、ありがとうございます。
    ヌヴーの母親が書いた伝記があるのですね。
    読むことができれば詳しくヌヴーについて知ることができそうです。
    (フランス語と思いますので私には厳しいですが…)
    ティボーの件は本当に不思議です。
    単なる偶然とは思うのですが、それにしても昔はそんなに飛行機が落ちたのでしょうか。
    和服姿の女性がティボーの演奏会ポスターを見ている姿は、不謹慎ですがなんだか時代背景を感じられて感じるものがあります。(私、ティボーはかなり好きなヴァイオリニストです。)
    色々と教えて頂きまして、ありがとうございます。

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