ヨーゼフ・ハシッド(Josef HASSID)

Josef Hassid

ヴァイオリンの王者フリッツ・クライスラーは「X(極めて有名な大家)のような人物は100年に1度現れるが、この少年は200年に1度現れるか否かだろう」と語った(参考文献1)。

このページでは、夭折の天才ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシッドを紹介する。

なお、限られた情報しか入手できなかったため、「その生涯」の件は、シェルマン社のCD「Joseph HASSID」の付属解説書(参考文献2)より抜粋したものであることを予めお断りしておく。

その生涯

1950年11月、かつてカール・フレッシュ(1873-1944)の門下生の中で最もその将来を嘱望された青年が、27歳の誕生日を待たず野蛮で効果の疑わしい脳外科手術の後遺症のためひっそりとこの世を去った。

ヴォルフシュタール(1899-1931)は肺炎で、アルマ・ムーディー(1900-1943)は自殺し、ジネット・ヌヴー(1919-1949)は飛行機事故で亡くなるなど、己の持つ才能を十分に開花させる事なくこの世を去った不幸な弟子たちがカール・フレッシュには何人かいるが、本CDでご紹介するヨーゼフ・ハシッドもその内の一人である。

ヨーゼフ・ハシッドは1923年12月、サミュエル・ドゥシュキン(1898-1976)が生まれたのと同じポーランドの小さな町シュワルキに生を受けた。彼は5歳半でヴァイオリンのレッスンを始め、その数年後ワルシャワにあるショパン音楽学校に入学、フーベルマン(1882-1947)の師、ミハイロヴィッチに師事するが、そこでイダ・ヘンデル(1923-)と出会う。

1935年11歳の時、ヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン演奏コンテストに参加、入賞する。ちなみにこのコンテストの優勝者は、ご存知の通りジネット・ヌヴー、2位はオイストラフ(1908-1974)、3位はテミアンカ(1906-1992)であった。

C.フレッシュとの出会い

1936年ワルシャワでハシッドの演奏を聴いたフーベルマンはそのすばらしさに驚き、カール・フレッシュのレッスンを受けられるよう尽力する。イダ・ヘンデルの父親を通してフレッシュの知己を得たハシッドの父は、1937年の5月、フレッシュ宛にベルギーでのサマースクールに息子を参加させてほしい旨とその際授業料を安くしてもらえないか、との依頼の手紙を書き送っている。事実、フレッシュはハシッドを無報酬で教えている。その一方で、1936年以降、ハシッドの経済的支援はワルシャワのユダヤ人組織が行っていたが、フレッシュがハシッドをロンドンに連れて行く事になった時には、その全ての金銭的面倒をユダヤ人の豪商Leo Gildesgameが見ている。

1938年の初頭、ハシッドはロンドンに移りフレッシュのもとで引き続き勉強することになったが、ロンドンではレッスンの一環として私的なリサイタルが何度か開かれた。1938年6月のリサイタルの一つで、フレッシュは『彼は私が今まで育てた弟子たちのうちで最も才能豊かなヴァイオリニストだ』と人に語っている。また、フレッシュのレッスン・スタジオで催された別のリサイタルに偶然居合わせたF.クライスラー(1875-1962)は、ハシッドの演奏を聴き『天才的なヴァイオリニストは100年に一人は出るが、ハシッドは200年に一人の逸材だ』と絶賛した。それが縁で、クライスラーは、自分の所有する19世紀中頃フランスで製作されたヴァイオリン、“ジャン・バプティスト・ヴィヨーム”をハシッドに貸し与える事となる。ハシッドが表舞台に登場するお膳立ては着々と整いつつあったが、フレッシュはまだ時期尚早と過度の演奏を制約した。

poster1939年4月3日、ついにウイグモアーホールにて、ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で念願の公式リサイタル・デビューを果たす。○シューベルトのソナチネ○コレルリのラ・フォリア○バッハの奏鳴曲ハ長調○ドビッシーのソナタ○サラサーテのプライエーラとサパテアード、そして○パガニーニの作品13/こんなに胸さわぎが、がその時の演奏曲目であった。そして翌年の1940年には初のレコーディングが行われ、当時英国屈指の興行主であったハロルド・ホルトと専属契約が結ばれた。いまや、あらゆるものが彼の前にひざまずくかに見えた。しかし、ほんの数ヶ月後にはその全てが崩壊してしまうのである。

失恋と最後の公式演奏

その頃ハシッドは、同じフレッシュ門下のある女性に恋をしていた。彼女の名前はエリザベース・ロックハート(1921-)、彼よりも2歳年上の19歳になる令嬢であった。しかし、彼の熱い気持ちは、年上で生まれも育ちも違う彼女の心には通じなかった。その時期から彼の言動がおかしくなり始める。友情以上の感情をハシッドに持ち得なかった彼女は、そんなハシッドに困惑し、彼を避けるためケンブリッジに引っ越す。しかし、彼女をあきらめ切れないハシッドは結婚申し込みの手紙を送りつけ、直接ケンブリッジまで乗り込んでゆく。結果二人の関係は完全に崩壊してしまう。

それは1941年2月の事であった。この失恋がハシッドの精神に与えた影響は壊滅的なものとなった。同年3月には極めて重要なコンサートが2つ予定されていたが、自分の部屋から一歩も出ようとせずその当日になるまで練習はおろかヴァイオリンに指一本触れようとさえしなかったのである。にもかかわらず、練習なしのぶっつけ本番で臨んだそれらのコンサートで弾いたチャイコフスキーやブラームスは評論家たちの絶賛を浴びた。ある著名な音楽評論家は翌日の新聞に、今まで自分が聴いたブラームスの中で最高の演奏であった、と書き記している。しかしながら、それが公の場でのハシッドの最後の演奏となってしまった。

病状の悪化

コンサート後間もなく彼の病状は重くなる。場違いな時間に夜会服を着て街を歩いたり、ユダヤ人を否定するような発言をし、自分はユダヤ人ではないと言い張る。また、鏡の前で変な顔をいつまでも作っていたり、とてつもなく大きな声で笑い続けたり、日に何回も服を着替えたりとその言動はますます異常になってゆく。さらに自分の父親に暴力を振うという最悪の症状が出始める。その頃、自分が録音したレコードさえもこれは他人が演奏したものだ、と言っていたと云う。

1941年6月、ハシッドはついに入院する事となった。ウインストン・チャーチルの主治医であったホーダー卿が自分の病院に彼を受け入れたのである。その時彼は、医師たちに『天才が送り込まれてきた』とコメントしている。1年後奇跡的に回復の兆しが見られ、ロンドンに戻ることが許された。ハシッドは再びプライベートなコンサートを開くまでになったが、その演奏は1年間のブランクを全く感じさせない見事なものであったという。しかし6ヵ月後、病気が再発する。女物の服を着たり、自分の部屋に放火したり、はたまた自殺を図ったりし始めたのである。

1942年11月、彼は完全に狂ったと見なされ、回復の可能性のない患者のみを収容する精神病院に強制入院させられてしまう。病状は以後、ますます暴力的になり、ついに1950年10月、脳葉切除手術を受ける。その17日後、ヨーゼフ・ハシッドは世間から忘れ去られたままついにこの世を去った。

ハシッドの演奏

今まさにこのCDで私達が聴こうとしているハシッドの演奏とは一体どのようなものであろうか。

ハシッドが今回の演奏を録音した際にはわずか16歳の少年であった事をまず覚えておいていただきたい。

そして、なぜそのレコーディングのピアノ伴奏をしたジェラルド・ムーア(1899-1987)が『ハシッドは天才だ。私はかつて彼以上に才能あるヴァイオリニストと協演したことがない』とのコメントを残したのか。

その答えは彼のレコードの中に用意されている。とりわけその中の2つの演奏に集約された形で・・・・・・。

彼の卓越した技巧と聴く者を興奮させずにはおかない何か。複雑なスタッカートの楽節を力を入れず楽々と弾きこなす天性のテクニックと、完璧なリズム感で作品を作り上げて行く独特の感性、それらはエルガーの『きまぐれ女』に顕著に現れているし、アクロンの『ヘブライの旋律』では、心にしみわたる贅沢な音色と最終楽章では信じられない程すばらしいトリリング演奏を聴かせてくれる。この2曲だけで、ハシッドの持つ天性の非凡さは容易にうかがい知れよう。

しかしながら、それらがすでに巨匠の域に達した演奏になっていた、とは私には言えない。なぜなら、その演奏の端々にまだ16歳を超えたばかりの少年の感性と感情が明らかに見え隠れしているからだ。

彼の才能は類い希なものであったかも知れないが、それが本当に花開く事はついになかった。

Julian Futter
ジュリアン・ファッター

追記:HMVとのレコーディング契約とセールス記録

1940年6月12日、同年中にレコード4枚を録音、翌年をその予備の年とする旨の契約が結ばれた。前渡し金は支払われず総売上の85%を基準ベースとしその5%をロイヤリティとして支払うと云うのがその条件であった。

レコード売上げ記録(1940)
Sept Oct Nov Dec Deleted
B9074 359 164 74 49 Feb 1946
C3185 816 41 34 Feb 1945
C3219 Feb 1945
C3208 March 1949

ディスコグラフィー

ヨーゼフ・ハシッドの録音は9曲を残すのみである。

(シェルマンのCDの付属解説書(参考文献2)およびWikipediaの情報より作成)

1 1939/1/9 エルガー 気まぐれ女 ピアノ:Ivor Newton
2 1940/6/12 エルガー 気まぐれ女 ピアノ:ジェラルド・ムーア
3 1940/6/12 チャイコフスキー メロディー なつかしい土地の思い出第3曲 同上
4 1940/6/12 サラサーテ サパテアード スペイン舞曲第6番 同上
5 1940/6/28 サラサーテ プライェーラ スペイン舞曲第5番 同上
6 1940/11/29 クライスラー ウィーン奇想曲 同上
7 1940/11/29 アクロン ヘブライの旋律 同上
8 1940/11/29 ドヴォルザーク(クライスラー編曲) ユモレスク 同上
9 1940/11/29 マスネ 瞑想曲 歌劇「タイス」第2幕より 同上

ハシッドの芸術

Josef Hassid

何故か惹かれる演奏というものがあるが、ハシッドの演奏はそのようなものと感じる。天才的なオーラを感じさせる天衣無縫な音楽、力みのない高度なテクニック。アクロンの旋律は聴く者を魅了する。

「夭折しなければ、ヴァイオリン演奏を確立したのはハイフッツではなく、ハシッドだった」と述べる人がいる。ハシッドはわずか9曲の小品しか残さなかった。しかしながらヨーゼフ・ハシッドの芸術を垣間見ることはできる。

個性的なゆえ、万人に勧める気はない。彼の名前を記憶に留めて頂ければ幸いである。

ハシッドについてのコメント

あんな演奏は-平常心を保っていてはとても出来ないでしょう。(イヴリー・ギトリス)(参考文献3)

(ハイフェッツについての言及の中でハシッドについて触れている)
(ハイフェッツの演奏について)その見事さをどう定義したらいいやら。演奏の完璧さで言うなら-ヨーゼフ・ハシッドやミルシティンの方が上でしょう。ハイフェッツは時おり音符を飛ばしました。バーナード・ショーは彼への手紙の中で、“よかったあなたも人間だった”と・・・(イヴリー・ギトリス)(参考文献3)

ハシッドの音

ハシッドに興味を持った方は、以下のリンクから彼の演奏を聴いてみて欲しい。何か感じるものがあれば、CDの購入をお勧めする。(無論、最良はオリジナルSPレコードであるが、常人が求めるような類ではない。)

タイスの瞑想曲 ウィーン奇想曲

ハシッドのCDの入手

Ginette Neveu: The First Recordings/ Josef Hassid: The Complete Recordings
ハシッドの全ての録音を収録。ジネット・ヌヴーとのカップリング。
シェルマン SH-1005/Joseph HASSID
シェルマンより発売されている史上最高の蓄音器による復刻版。Ivor Newtonピアノ伴奏によるエルガーの気まぐれ女を除く全8曲を収録。上記のTESTAMENTよりもこちらをお勧めする。

参考文献

  1. 署名なし、CD「名ヴァイオリニストの歴史」付属解説書、EMI TOCE-9601-5
  2. 署名:Julian Futter、CD「Joseph HASSID」付属解説書、(株)シェルマン SH-1005
  3. DVD「アート・オブ・ヴァイオリン」、ワーナーヴィジョン・ジャパン WPBS-90033

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